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診療所に行く

 先日、生理の周期がおかしくなり診療所に赴いた。診療所といってもそこは総合病院の外来のように大きい。床はじゅうたんで、壁も品のいい色に塗られ、診療所がつぶれてもどっかの会社が入れそうな感じだ。

 少し緊張している私を受付の人は笑顔で迎えてくれた。制服などなく、胸に名札をつけ春らしい服を着ていてなかなか好感がもてる。その人は私の予約を確認してから書類をさっと出し、それをもって婦人科へ行くように言った。

 婦人科の受付の人たちはペチャクチャと楽しそうにしゃぺっていた。ここは金回りがいいのか、どの職員もゆったりと余裕がある。待ち合い室も私一人だけだ。

 私が看護婦として外来で働いていた頃、そこは戦場のように忙しく、先生も看護婦さんも受付の人もみんな殺気立っていた。私はよく点滴を抱えて処置室と点滴室の長い廊下を行き来し、廊下に一歩出ると、両端にぴっしり座っている患者さんたちの視線をいっせいに浴び、どの面下げて歩けばいいのかわからず色いろな点滴だけをさげて往復していたものだ。そこはまるでファッションショーならぬ点滴ショーが繰り広げられていた事を思い出す。

 待ち合い室で待っていると「ユゥーミェコオ」と後ろで声がする。どうも私の名前らしい。看護婦さんの後ろをついていくと6畳くらいの部屋に通された。彼女は私にいすを勧めた後、医者が座るあろういすに座った。そして問診をはじめた。彼女は、水色のパンツにパステルカラーの上着で名札をつけていた。どの看護婦さんも同じようなス  タイルだったが、色や柄は好きに選んで着ているようだ。自分たちで買っているのか支給されているのか興味のあるところだ。

 看護婦さんは私の血圧を計り「グッド」と言った。カルテを覗き込むと110の72でグッドであった。そして「アンという先生がきますから、ここで待っていてね。」と言って部屋を出ていった。隣にも同じような部屋がいくつかあるらしく、先生が部屋に入る患者を訪れて診察するようになっ ていた。部屋の壁は水色で花柄が飛んであり、かわいらしく仕上がっていた。

 角には洗面台と着替え用の簡単なカーテンがかけられている。ちょっと雑誌に紹介されそうな、でっかい洋風のパスルームになれそう。いや、へたすりゃどっかのアパートの部屋にもなれそうだ。ここにペッドをおき、気に入った絵でも掛けたらさぞ気持ち良いだろう。しかしここは婦人科。壁には胎児の成長段階の図がバーンと掛けられ、内診台らしいものが部屋を占領していた。

 しばらくして診察室のドアが開いた。スラックスにベストを着た、さっきの受付の人のようないでたちの女性が入って来た。「ごめんなさいね。お待たせして、私がアンよ」と言って医者が座るイスに座った。どうも彼女が医者らしい。なんかカウンセラーにでもあっているようだ。アン先生は私の症状を詳しく聞いた後、私が1年前に受診した時の記録を丁寧に読んだ。横から見るとびっしりと活字でうたれてある。

 私の友人の医療秘書は、仕事の一つにタイプうちがあると言っていた。これは、医者が患者のサマリーを口頭で録音したものを、活字になおしてカルテに記録するというものだ。だからタイプの技術は、医療秘書の大切な条件らしい。医者がかぜで鼻声だったり、笑いながら録音されると、非常に聞き取るの難しいと言っていた。

 アンはとても丁寧に診察してくれた。.内診の時も何が起こるかすベて説明し、その時間を惜しまなかった。私は不安ではなかったし、質問もできた。そこには先生とか患者とかそういう関係を超えた人と人とのマナーがあり、お互いを尊重する空間があった。それは診療所に入ってから出るまで、一貫して存在していたように思う。

 私は自分に何が起こっているのかを知って安心し、診療所を後にした。ただ恐ろしいことがあるとすれば、あとで請求書が郵便で送られてくることだけである。  
 (題字・カットとも筆者)


村岡 由美子
*プロフィール*
  1971年大阪生れ。奈良・岡谷病院で看護婦として勤め、1996年にアメリカ人のヒースと結婚し渡米。
 現在は、非営利団体で「家を建てる」ためのボランティアコーディネーターをするなど、あらゆることに挑戦しながら絵日記エッセイをかく。

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